菩薩として生きるには、、、、
お陰様で俺は自分が望んだとおりに朝に神社に参拝に行って暑い日も、寒い日もなく自分の望み通りに歩き回っているのだ人間の欲というのは際限りなくて一つ手に入れればもっと欲しいと思うものでベッドから降りることができずに悔しい思いをしていた時には今は夢のようなもので十分に満足するもののはずなのだいつしかその時の気持は消えてしまい、名声が欲しいと思うようになりもっと金が欲しいと思うようになるのが人間なのだ戦争をしている時は平和が欲しいと思うものだがいざ平和になるとまたまたほしい、欲しいが黙っていなくて気づけば戦争をしているのが人間なのだ、人間は自らの欲望のために他者を殺す生き物だその欲望の事を釈迦は煩悩となずけたのだ、俺がもっと自由に体を使えるようになりたいと思う事は煩悩なのだろうか?俺のどこにそういう、汚い心があっての事なんもだろうかとおもうのだけれど、俺の心に燃え盛るもっと身体を軽やかに使って生活したいと思う気持ちは自分のために思う気持ちであって決して世の中を良くしたいとかそういう心なんてものはこれぽっちもないのである、俺は今 握りしめているこの思いを手放すべきなのだろうか諦めるべきなのか?全く答えが出てこないので、自然の中にある樹木は雷で打たれたりして折れたりするものもある、そういうものは文句も言わずにただそのままでいる無理をしようとしないのだ、そのままの姿をそのままに、生き続けているではないか、、、、だったら俺もそうであろうと思えると良いのだろうか?こう書くと禅問答のような正解のない思考の渦に入り込みそうだ、、、俺は山に生える古木のように自然に朽ちるのをただ待つばかりの存在に成ればいいのだろうか?それが古木にとってできることだというのなら俺も今の俺を受け入れて日々を過ごしていくのが俺だけの生きる道だというのなら俺だけの道を歩いていくようにしようと思うのです。これぞ小欲知足の生き方になるのではないだろうか、俺は、それ位自分の事を捨て去る気概を持った人になりたいのだ、自分に拘らずに自分の子などは忘れてしまうようなそういう大バカ者に俺はなりたいのだそれが菩薩行と言われる生き方になるのではないかと思うようになってきたのです。